シニアの本棚③曽野綾子「老いの僥倖」 肩書のない年月にこそ、人は自分の本領を発揮できる

「老い」の切り口は、こんなにも多彩にあるのかと気づかせてくれる

巻末にリストがあり、著者が記した小説・ノンフィクション、エッセイ、新聞雑誌のコラムなどから92の出典でこの本ができあがっていることが分かる。下の目次で興味が湧いた項目をアトランダムに読んでいくと、教えられたり感心したり、これは真似させてもらおうと思うことが多彩に散りばめられている。

立ち位置や語り口に、曽野綾子という人の生きてきた軸がしっかりと伝わってきます。辛口や爽やかな諦めや、深い洞察があるかと思えば洒脱な切り口もある。ロールモデルというのではないが、先輩の話を聞いている感じがして、老年期に足を踏み入れた後輩には出会う価値のある一冊だと思います。

この本の目次をご紹介すると、

  • 第1章 人間が熟れてくるのは中年以後である
  • 第2章 人はあった人間の数だけ賢くなる
  • 第3章 年を取るほど快楽は増える
  • 第4章 不運と不幸は後になってから輝く
  • 第5章 「美老年」になる道はいくつもある
  • 第6章 もう嫌なことを考えている暇がない
  • 第7章 老いの試練は神からの贈り物

「加齢の力」という視点が、ポジティブ

ボクは冒頭から大きく頷きました。

「人は加齢と共に変質するからおもしろい」と見出しに続いて、「年月のおもしろさは、個人の変貌にある‥人間自体が年を取ると若い時とはまったく別人になっている。(中略)かんたんにいい人間に変わるとも言えないし、ぼけてばかになったとも言い切れない。しかし、変わって不思議はない。人は変わるのだ。変質するのだ。それが加齢の力だ。」

➳さあ、定年を迎えれば変わるのが当たり前。それが楽しく面白くシニアの時間を生き抜く第一歩ですよと語りかけています。

立ち止まるときを持つ意味

➳曽野さんは「本当は人間は人生の途中で、ゆっくり立ち止まって風の声を聞くような日々がなければならないのである。そうでなければ、どちらの方角にあるき続けたらいいのかわからない」と言います。

五木寛之さんは、「50歳前後に、数年間【休筆】と称して、しばらく仕事を休んだのが良かったかもしれません。隠し事から一時的にリタイヤし、京都に住んで、仏教系の大学の聴講生として授業を受けることにしたのです。下駄履きで大学に行き、講義を聴いて学生食堂で昼食を取り、映画を見て、古本屋を回り、お寺巡りなどで日を過ごしました。今から考えれば、人生の「下山期」初めのあの経験は、その後の仕事にも、大きな影響を与えてくれたような気もします。」

立ち止まり方は人様々です。ボクは、定年退職と同時に人間関係を一度ご破算にしてみようと、前職の会社の人をはじめ、仕事で知り合った人も含めて一度行き来を断つことで、ボクのことを知らない人たちと出会う余地を作っていこうとしました。

ボクの年下の友人が55歳のいま、脳梗塞で治療入院を余儀なくされています。ですが、そうした不運に見舞われて苦しいリハビリの毎日であったとしても、きっとその時期が彼にとってプラスに転じる立ち止まるときになるのでしょう。

定年後の準備をしない人は「能なし」である。

「定年以降まで、会社に自分の働く仕事を設定してもらおうなんて、逆にみじめな限りだろう。人生の最後に、せめて人間は自分自身の時間の使い方の主人公になるのが自然だ。

私の知人は、定年後、いろいろなことをして遊んでいるが、時間を決めてどこかに行かねばならない、といくことだけはしないのだという。音楽会もごめん。パーティもまあご遠慮しておこう。その代わりいつ行っても自由に遊べる、ということだけしている。(中略)

何でもいい。早くから、定年を迎える時の準備をすべきだ。それをしない人はわかっていることをやらない「能なし」である。」

➳その通りだと思います。定年を迎えて、、継続雇用や、再雇用を選ぶのなら、あくまで腰掛的な確信犯でその制度を利用すしてください。「戦艦の乗組員から、小さなボートの船長になる(日野原重明さん)」のですから、本来はとっととマイボートを漕ぎ出すのが本筋ですが、事情によって

そして、定年後の準備とは、肩書のない「人間として」生きる覚悟をすること

「あらゆる職種が、その仕事に適した年齢限界の年齢というものを持っている。しかしその後の長い人生を『人間として』生きる。この部分が実は大切なのだ。余生などという言葉で済むものではない。

この、ひとりで人間をやり続ける他はない年月に、人はその人の本領が発揮できるのではないかとさえ思える。

➳ボクはこのブログの別の記事に書いているのですが、なぜ現役時代を終えても20年・30年という時間が与えられているのか。その意味を問うことから第2の人生を始めたいと考えていて、曽野さんから大きな答えをいただいたと思います。

人間は慎ましく努力して人間であり続けなければならない

ボクは、このエピソードも好きなので、紹介します。

「私の知人に、60歳を機に、家中の至る所10カ所近く、鏡を置いたという人がいる。それくらいの年になると、 もう年だから外見はどうでもいいや、という気になる。その気の緩みが古めかしい服を着て、背中を曲げ、髪がボサボサでもいたし方ないという、結果を招く。

しかしそれくらいの年からこそ、人間は慎ましく努力して人間であり続けなければならない。そのためには差し当たり、姿勢を正し、髪を整え、厚化粧は避けても、品のいい生き生きとした老人でいなければならない、と思ったからこそ、その人は鏡を10枚も置いたのだろう。

私はその話にいたくうたれた。別に新しい服を買わなくても、高い宝石を身に着けなくても、背を伸ばすだけでも人は5歳は若くすがすがしく見える。

「死」についての記述も、含蓄がある

カトリック教徒であり、夫の死を看取ってきた曽野綾子さんのしに対する向き合い方、捉え方はとても自然体でこちらに伝わってくる。

いくつか紹介をすると、

「人生の最後に、収束という過程を通ってこそ、人間は分を知るのだとこの頃思うようになった。無理なく、みじめと思わずに、少しずつ自分が消える日のために、事を準備するのである。成長が過程なら、この時期も立派な過程である。」

また見出しに「死は人間の再起である」「死に際に得られるもの」「終りがあるのは救いである」などがあるが、最もボクが感銘を受けたのは、次の文章です。

「荷を下ろせばさわやかな風が優しく慰めてくれる。

老年や晩年の知恵の中には、荷物を下ろすということがある。達成して荷を下ろすだけではない。未完で、答えが出ないまま、衆着地点でなくても荷物を下ろす時がある。普通人間は荷物を下ろす時には、必ずその目的を達成し、地点を見定めて下ろすものなのだが、死を身近に控えれば、そのような配慮はもう要らなくなる。

そっとひと目を避けて木陰で荷物を下ろせば、さわやかな微風がきっと私たちの汗ばんだ肌を、優しく慰めてくれるものなのだ。

ぜひ、ご一読を。

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