シニアの本棚⑦ 83歳下重暁子✕72歳弘兼憲史「哀しみがあるから 人生は面白い」

 ➳対談物は読みやすいですね。それは多分、2つの個性や視点をテニスのラリーを眺めるように、客席から鑑賞できる気楽さと客観性があるからでしょう。

さて、我々が高齢の友人同士だと話題は<病気の話か孫の話、昔話>と相場が決まっていて、意外と自分たちの死については言葉を濁してきました。

ところが、(いつも引用する)上野千鶴子さんの著書・「在宅ひとり死のススメの第2章 死へのタブーがなくなった の41ページに

「このところ、死についての見方が変わってきたようです。かつてなら親しい間柄で死について語るだけで、「縁起でもない」「滅相もない」と、話題を打ち消したものですが、最近では「終活」ということばも登場し、家族のあいだで、どんな葬式をしたいか、お墓はどうするか、を語り合うようになりました。

『おひとりさまの老後』を出したあと、「在宅ひとり死 ©ChizukoUeno」という新語をつくって「在宅ひとり死準備講座」という講演会を企画したとき、主催者は、こんなテーマで人が来るかしら? と心配しましたが、なんの、500人入る会場がいっぱいになりました。それよりわたしがびっくりしたのは、質疑応答の時間に会場から出た発言です。「死ぬのはひとりでできますが、遺体の始末は自分ではできません、どうしたらいいでしょう?」と、「死」だ「遺体」だの「葬式」だのということばが飛び交いました。ああ、こういうことばにタブーがなくなったんだな、と感慨を覚えたものです。」

そうなんです。83歳と72歳の対談には、死や介護は端からタブーでもなんでもなく、下重さんも弘兼さんも「母の認知症や両親の死、自分の死に方」について楽しくテンポよく語っていきます。

読んでいるこちらもタブーがカランと外れるような、読書体験が味わえます。

目次を見るだけでも、楽しくなります。

  • 1章 人は好きなことをやるために生きている    下重流・弘兼流 人生の意味
  • 2章 人間のゴールは死。笑ってゴールできたらいい 下重流・弘兼流 理想の介護・理想の死に方
  • 3章 七◯歳。まだまだこれから       下重流・弘兼流 人生後半からの逆境の乗り越え方
  • 4章 人は年を重ねるほど自由になる     下重流・弘兼流 年齢に縛られない生き方
  • 5章 人は哀しい。だから人生は面白い    下重流・弘兼流 人生の美学

➳どの章から、どのテーマから読んでも楽しめます。むしろ、最初から順番に読む必要はなく、ラジオのDJのおしゃべりを毎週細切れに聞くのだけれど、一貫したメッセージや視点の愉快さや深さに、その都度共感して、自分もそのテーマを考えてしまう、という感じです。

ボクがいいなと感じた、「2章の、死に方」と、「4章の、年を重ねるほど自由」 「5章の、人の哀しさ」の一部をご紹介したいと思います。

死に方について、考えていこう、ただ流されるだけではゴールにならない。

2章  年を取るということは、人生をどう完結させるかの瀬戸際にいる  下重

「管理する側の都合で、人の尊厳を傷つけてはいけない」

下重  弘兼さんがおっしゃるように、老化は人間としての成長だというお言葉に、私も深く共感します。だからこそ、周りの人はそれを尊重しなければいけませんね。ところが日本の老人政策はまったく違っていて、たとえば施設では、好きな人も嫌いな人も集めて、みんなで一斉に塗り絵をさせている。歌を歌わせたりして、あれは一体何なのかしら。

弘兼   そういうのは嫌ですね。      下重   嫌でしょう? 最悪でしょう?

弘兼   おふくろもあれが嫌で、施設には入れるなと。   (中略)

下重  七〇、八〇と年を重ねた人たちは、ある意味で人生の一番大事な最後の局面にあるわけです。そこへ行くまでの道のりは千差万別で一人ひとりみな違う。どんな人生でも大切にしたい。その違いを認めて大事にしてあげなければいけない。ところが一人ひとりを大事にするためには、一人ひとりと向き合ってよく理解し、個別の対応をしなければいけない。それにはものすごくお金がかかります。

弘兼   だからまとめて一緒くたにしてしまう。    下重  それは大間違いですよ。

弘兼   ぼくはあの光景を見てから絶対施設には入らないと決めました。  下重  私も絶対入らないと思った。

弘兼   極端かもしれないけど、アパートで一人で孤独死して、腐乱死体になって発見されたほうがまだいい。

下重  私もそのほうがいい。ひっそりと野垂れ死にしたい。女優の大原麗子さんは孤独死といわれましたが、彼女の家の衣装部屋には一六世のスペインの詩人、サン・ファン・デ・ラ・クルスの「孤独な鳥の五つの条件」という詩が貼ってあった。覚悟の死ですね

一人で暮らす永井荷風の死にざま

弘兼  ぼくは耽美派の小説家、水井荷風の死にざまに憧れます。彼は自宅の六畳間で血を吐いて、唯も気がつかないうちに亡くなりました。七九歳でした。昭和三〇年代当時としてはかなり長生きだったのではないでしょうか。そばには七輪や鍋があったそうで、鍋をつつきながらそのまま亡くなったのかもしれない。

戦前、向島の私娼窟・玉の井に足繁く通ってお雪さんとの出会いと別れを書いた「濹東綺譚」は有名ですね。日本のロートレックみたいな人です。    (中略)

下重   一人でも素晴らしい生き方はいっぱいあります。でも、外から見ると不幸に見える。世間には「有名な作家なのになんて気の毒に」と思った馬鹿な連中もいるかもしれない。そうではないのです。一人ひとり自分の死に方というものがあるわけで、たった一人で死んだっていいではないですか。私が思うのは、自分が死ぬ時は一人で死にたいですね。家族に囲まれて死ぬなんて嫌。

➳自分の場合は、どうなんでしょうね。副腎にできたガンの再発はこの5年なくて、前立腺の方もホルモン療法で抑え込んでいます。高血圧も14kgの減量と運動で降圧剤も最小の錠剤を2日に1回と改善できています。突然の死に方は制御できませんが、つれあいとふたり暮らしですので、緩やかにヨロヘタ期に入って、自宅で死にたいとは願っています。

自分の時間を生きられる自由。年取ってまで枠にハマるなんて。

4章 年を重ねるほど自由になった。自由になるには不良にならなければ     下重

人がどう思おうがまったく関心ない

下重   弘兼さんも私も、要は人のことに関心がないのよ。

弘兼  そうなんですよ、年を取ると。

下重  人がどう思うとか、これをやったらどう思われるかとか、そういうことにまるで関心がないもの。昔はありましたよ。昔は鎧を着ていましたからね。

弘兼   確かにそうですね。

下重  鎧を着ていてガチガチだったけど、今はもうとても自由です。人の目を気に、していたら自由にはなれません。何といっても自由であることが一番です。そのためには不良にならなければ。


弘兼   不良中年の勧めですね。もう中年ではないですけど。
下重  不良老年の勧め。
弘兼   ああ、なるほど。

下重  そういえば昨年(二〇一九年)出した本が「不良という矜持」(自由国民社)。
弘兼   老いてますます不良です。(笑)  
下重  不良というのは、枠にはまらないことです。人から枠にはめられるのは一番嫌なことですよ。でも、男の人がそういうことを言うとまだかっこいいのですが、私は女でそんなことばかり言っているものだから、よほど変わっていると思われているみたい。
弘兼   かっこいいですよ。
下重  私にとっては、ちっともおかしくない。当たり前なの。無理して言っているわけでもなんでもないのです。子供の時から病気で一人だったから、自然にそうなってしまった。枠にとらわれるのをやめて、やりたいことをやる。言いたいことを言う。人がどう思おうと知ったこっちゃない。不良老年になると、誰でも生きるのがすごく楽になりますよ。」

➳ボクも一人っ子で育ちましたから、他人との距離感が分からない。「要は人のことに関心がないのよ」なわけで、集団生活(学校・社会・家族親戚)の中で、自分が思うことはいつもズレがあったので、他人はどう思うか、行動するかをまず見てきました。それでも人には遅れまいとしてきたので苦労というより、やることやってから自分らしくしようと我慢してきたと言えます。その感じは、定年後に8割くらい減って、今回コロナ禍で仕事がほぼなくなって、一気に自由になりました。

無味無臭でお終わりたくない。「哀しみ」というお題をにいただきましたから。

83歳のいまでも恋心はちゃんとある。そういうものがなければなければ生きている甲斐がない   下重

下重  私は一読者として「黄昏流星群」を選びますね。心が揺さぶられるんです。四〇代の恋や五〇代の恋が受けないなんて、そんなことを言っているほうがおかしい。だって私は八三歳ですけど、ちゃんと恋心がありますよ。

弘兼   それはそうですよ。みんなそうです。

下重  好きな人だっていますよ。そんなの当たり前でしょう? いくら年を重ねても、若い子と一緒。ときめく気持ちは変わらないものです。    (中略)

ときめきは前ぶれもなく冬薔薇(ふゆそうび)

下重  私の作った俳句です。「冬薔薇」は冬の季語ですが、想像してみてください。冬枯れの寒々しいところに、あらかた葉を落とした薔薇の木が一本、小ぶりの花を咲かせている。寂しさを禁じ得ないけれども、ぽっと咲く花には、儚くも微かな希望が感じられます。

今、八三歳の私の心情そのものです。そういう出会いがたくさんあるわけではないのですが、そういう人に出会えたということ、また出会えるということが、人生の喜びだと思います。

弘兼   若い頃のように、激しく運命的な出会いというわけではないけれど、どこか惹かれるところがあるのですね。

下重  ええ。私にときめきをもたらしたその人は、有名でもなんでもない普通の人ですが、考え方、感じ方など似ている部分がある。いくつになっても、そういう出会いがなかったら生きている甲斐がないではありませんか。それでは楽しくない。     (中略)

たそがれてていく身に、ひと筋の願いや期待がある。だから『黄昏流星群』が好き   下重

弘兼   子供時代は自分の環境や自分の容貌に関する挫折から始まり、もう少し成長したら恋愛の哀しみ、そして社会に出たら家族の問題や、会社勤めならば貴任問題などで困難や挫折に直面する。一的には、こういう流れがあるように思いますが、われわれの年代にとっての哀しみというのはなんでしょうか。やはり近づきつつある死ということになりますか。

下重  高齢者の哀しみについては、随分『黄骨流星群」に描いてらっしゃるでいありませんか。私が、なぜ『黄昏流星群』が一番好きかというと、あの作品には哀しみがあるからです。何というのか、人間の持っている本質的な哀しみを感じるのです。私は『黄昏流星群』というタイトルがすごくいいと思う。理屈から言えば、たそがれ時には、まだ流星は見えないはずです。「黄昏」って、人生のたそがれということですよね?

弘兼   そうです。まだ完全には夜になっていない状態です。日没後の薄暮、一瞬の淡い時間帯でしょうか。

下重  人生がたそがれてくる時の、ほんの一瞬の美しい時間帯です。ですから、まだ死ぬ間際のような年ではないはずです。

弘兼   「これからまだひと花」「お楽しみはこれからですよ」という、そんな時間帯です。

下重   これからひと花咲かせるという感じがあって、そこへ流れ星が流れる。ということは、願いが叶うかもしれないということでしょ? 愛情でも、夢でも。たそがれていく身であろうとも、誰でもひと筋の願いを持っています。それは、人に対してでもいいし、自分に対してでもいい。何かしら一種の期待のようなものを持っているわけです。ただしそれは、やはり若い時の願いとは違います。

分別がついた大人の限度もあります。自分でもある程度、自らの力量もわかっていて、相手のこともだいたいわかる。それでいて、自分の立場も相手の立場も、若い頃とは全然違ったものになっています。若い頃の立場の違いは、その後の生き方でいくらでも変えていくことができますが、人生のたそがれ時になると、お互いの立場の違いはもうそのままで変えられない。その違いを超えることは、まずできない。

『黄昏流星群」の中には、全然違う立場の人のエピソードがたくさん出てきます。そんな二人が心を通わせる一瞬がある。それが何とも言えないのです。

➳弘兼さんのあとがきにもありますが、お二人には共通点があって、「いまでも働いていて自立している。プラス思考。ぶれない。人からどう見られようと気にしない。いい意味での「いい加減」さがある。他人と違う発想がある。そして恋心を失っていない。」から、魅力的です。

とても楽しく刺激的な一冊です。弘兼さんの『黄骨流星群」と下重さんの「不良という矜持」も読んでみたくなりました。

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