「個と連帯」から「組織と個人」そして「フリーランス」の対立軸は「組織人」「チーム」? (1)

大学1年の時にぼくは学生劇団で「真田風雲録」というお芝居をした。大坂城落城の炎を遠望して猿飛佐助が唄うシーンがエンディングだった。

『佐助のテーマ』(戯曲の歌詞を転載)※アイコン写真は映画DVD表紙から借用。

♪生きるか死ぬか 問題なら
ひとりかみんなか 問題だ
ひとりでないと いっしょにゃなれぬ
いっしょじゃないと ひとりになれぬ
ひとりがいっしょで いっしょがひとりで
ホイのホイのホイ ホイホイホイのホイ

当時のぼくたちは、粋がってサルトルとボーボワールや吉本隆明の本をブックバンドで脇に挟んで、「個と連帯」について話すのがかっこいいと思っていた。大学は3年の頃から学生運動の影響で学内は封鎖になり、授業はなくなりレポート提出に変わったので大量の時間が使えるようになった。ぼくは学生劇団の幹部の位置だったが(みんなが封鎖を喜んで街の喫茶店や地方の大学で芝居を発表していたが)何故か集団行動が苦手になり、アルバイトで過ごすことを選んでいた。ぼくはいわゆる一人っ子で育ち、親の事業の失敗の繰り返しの中で一日中一人で過ごすことが日常の子供だったからか、一人でいる方がラクに感じる習性を抑えられず、集団に惹かれるくせに背を向ける根暗なやつだった。

そんなぼくの性格に最も適していたアルバイトといえば、ホテルの皿洗いがそうだった。確か18時にタイムレコーダーを打刻して、ディナーや宴会の食器を大量に洗う仕事場。ベルトコンベアで流れてくる料理の残骸と食器をさばいて食洗機に入れる役割で、特に共同作業があるわけでもなく持ち場の責任を果たせば良かった。24時まで働いて仮眠ベッドで寝て、6時ころに起こされて朝食を食べて大学に行く生活だったが、学内封鎖になって朝からやることがなくなってしまった。そこで新聞広告でCM制作会社のカメラマン助手の募集を見つけて面接に行き、即採用された。いまでも不思議なんだが、(あとから聞いたところでは)アルバイトではなく社員募集のはずだったし、現場が推していた社員候補を最後に押しのけて学生のアルバイトが採用されてしまったらしい。

心底は根暗なんだが表面はそうは見えないらしく、ぼくはこれ以前も以降も面接と類するものはほとんど落ちたことがない。どうも育ちのいい子供や青年に見えるようだ。確かに2年間くらいは、お坊ちゃまだったことはある。朝鮮動乱前後に事業を起こしては潰すの繰り返しの父親の元で外車ヒルマンで送り迎えされたこともあった。でも、元々が裕福で上品な家柄ではなく、にわか成金で没落ではなく元の木阿弥程度だったから、品良く育てられたわけではない。そして、借金を抱えて四畳半一間に祖母を入れて家族4人が暮らす時代が小学生の大半だった。ただ当時は日本全体が貧しくて混乱している玉石混交の環境だった。同じ町内に、西陣織の機織りの職人の長屋があり、日本舞踊を教える粋な家屋があり、鉄工所を営む工場と社長宅があり、高級月給取りと呼ばれた銀行の幹部宅があり、大学教授もくず鉄拾いをする身障者の路地奥の小屋もあった。公立の小学校に行けば、ここも玉石混交。冷泉家や九条家といった公家の子供が、朝鮮人部落と蔑まれていた子供と平気で机を並べていた。時代は貧しいけれど、子だくさん、50人学級が小学校で6クラス、中学に行けば12クラスになった。いろいろな子供や大人が溢れているのが毎日で、みんな精一杯生きていたから、ことさら貧乏だということが気にはなっていなかった。それでもうちの家は大人3人が朝から晩まで働いて、まず月々の借金を返してからなんとか食にありつく生活だった。四畳半一間の間借りのところにも借金取りは毎月督促に来るのをぼくが断り役をしたり、闇米を買いに夜遅くにモグリの業者の家に3合・5合と買いに行くのもぼくの仕事だったが、親は頭の良さ(少しだけいい程度)と本を読むのが好きな子に育ててくれた。

小学校の時ぼくは、2つのグループを掛け持ちしていたことを覚えている。一方はぼくと同じ貧乏人の子供たちで、家に帰っても誰もいないので夕暮れギリギリまで校庭で遊んでいるグループ。もう一方は、学期ごとに選ばれる学級委員長副委員長かあり(ぼくは毎年2学期の副委員長が選ばれていた)、さらにクラスの代表として学芸会や運動会の役員を務めるのにも必ず選出されていた。この選ばれるグループには金持ちの家の子や医者の家の子が多く、勉強もできるとされている子どもたちだった。そんな子達の家に放課後遊びに行くと、母親や家庭教師がついていて彼らはお勉強をさせられていた。ぼくの方は家で勉強をすることを命ずる親は夜遅くまで帰って来ず、勉強する空間も満足になかった。

人生は、紙一重。様々な選択のポイントで恵まれていまがあると思うのだが、ぼくが高校に進学する年では日本全体では69.1%の進学率である。裏返せば約30%は中卒で働かなければならなかったということ。ぼくの環境では約30%の中に入ってもおかしくはなかった。さらに大学進学率はというと、23.7%である。よくぞ4人に1人の枠に入れたものである。我が家の経済環境は、確かに小学生の頃がどん底で大学進学時点では蓄えをすべて注いで、一人息子をなんとか私立大学に行かせる状態に持ち直していた。今は亡き両親に素直に感謝しているが、(そのうえであえて言うと)ぼくは小学生の頃から、自分は大学にいくものだと思っていた。学費がどれだけ掛かるのかなどまったく知らなかったし、何を学びたいということもまだ分かっていなかったのに。

それは多分、異なるグループを見てきたからではないかと思っている。先程言ったことだが、金持ちの家の子や医者の家の子の家に放課後遊びに行くと、母親や家庭教師がついてお勉強をさせているがその環境がすべてではなく、成績の良さや知性といったものは個人個人で異なるのだと感じていた。一方貧乏がそうさせるのではないけれど、貧乏な子の年上の兄弟たちを見ていて憧れるような思いを与えてくれる人たちがいなかったのも事実だ。

そしてもう一つの体験も、自分の人生は自分で決めるようにできているんだと思わせてくれた。祖母がやはり借金返しのために働いていた。上流階級の家の女中奉公をしていて、通いのときも住み込みのときもあったが、放課後の時間帯に時々、その邸宅の勝手口にぼくを呼んでおやつをくれることがよくあった。市電に乗るお金もなく小一時間くらいは歩いて行った。それらの邸宅にも同年齢の子供たちがいて祖母の孫として普通に接してくれて交流があったのだ。感じの良い子も賢そうではない子もいた。ただ、貧乏な環境の子たちと違ってガサツさや下品さがないことをぼくは肌感覚で学んでいたのではないか。人と接するときの佇まいのようなものを、そうした中で身につけたのは生きる知恵のようなものだったのだろうか。

面接に類するものはほとんど落ちたことがない。どうも育ちのいい子供や青年に見えるようだ。ということを自分で探ってみたがどうだろう。(続く)

 

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